昭和五十六年六月三十日 大祈願祭
 「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」とみ教え下さってあります。今、天地の開ける音とは、どういう音であろうか。目を覚ますということは、どんなことであろうか。私は、今、合楽に響き渡っている天地の言うならばすさまじい働きを、ここ合楽に集めて誰でも合点がいくように分からせて下さろうとする働きそのものが、私は天地の響きであり、同時にそれを聞き見て、お互い目を覚まさなければならんのではなかろうかと思います。
 さきほど御結界を下がる時に、今年は、去年の今日御祈念をさせて頂きました交通安全の祈願の御神米がたくさん残っておるように聞いておりましたから、どのくらい余ったのかと聞きましたら、それが先生、昨日までできっちりでしたと言うんです。どれだけ作ってあったのかと言いましたら、1850体あたということでございます。だから1850台の車がおかげを頂いたということになります。去年もそうでしたね。去年も前日までで終わりました。例えばこれを聞いただけでも、私はこれを天地の大音声と聞かなければならんと思うです。しかもその1850台の車がね、事故皆無ということでなないけれども、大難は小難、小難は無難に等しいおかげの中におかげを受けておるということになれば、もういよいよもって、これでも分からんか、これでも分からんかと言わんばかりのものを、私は現在の合楽の御ヒレイにそれを感じます。
 もう私は今朝から申しましたことでしたけれども「世紀の奇跡」だと私は言うております。どうでしょうか、みなさん。そういうことが有り得るだろうか。1850台の車がです、お祓いを受けておっておかげを頂いて、今年も一年、無事息災のおかげを頂きました。今朝から吉井の熊谷さんが朝参りをして見えて、もう八十いくつのお婆さんです。昨日も敬親会でしたから見えて、その発表しておられましたが、ほんとに有り難いことです、今年は私が足がこんなに悪うございますから、大祓いともなると、もう親戚、自分の知った家なんかずっと回って、その「はらえつもの」とか「交通安全の祈願」とか、そのあれを配って回って、そしてそれをまた全部頂いてきて、ここでお願いをなさるというようなことだったけども、今年は行かれない、足が痛くて、そしたら、もうみんな向こうから、もう確かに合楽のお祓いをして頂くお祭りがあるというので、みんなが持って見えられる。今朝からもですね、夕べ遅くまで、おかげを頂いて一年間おかげを頂いて無事故で病気もせずにおかげを頂いて、どうぞお礼を申し上げて下さいというのであったと、今朝からのお礼のお届けでした。
 初めの間は熊谷さんが行かれると、ちっとはこう迷惑そうな顔をする人もあった。中には今年はもうよございますと断られる人もあった。ところがそういう人のところに限って事故が起こった。だからやっぱ、あげん言いよりましたばってんまたお願いしますというようなことで、また明くる年からその方は持って来られるというようにです、しかも今までは配ってはそれをまた頂き、また御神米を配るというようになさっておったけれども、昨日のお話から、今朝からのお届けに、みなが一年間おかげを頂いたことのお礼とまた今年もどうぞよろしゅうというお願いであったということでございます。
 今朝からの御理解の中にも今日のお祭りのことがいろいろと。みなさんが祈願詞の奉唱をなさる中に「甲斐ある命に目覚める」というところがあります。「甲斐ある命に目覚める」ということが、私は、天地の今、開ける音を聞いて目を覚ました姿だと思います。甲斐ある命に目覚めるということ。そこからほんとの信心の姿勢も出来る、おかげも頂ける。まあ端的に言うて、今日のこのお祭りは信心があろうがなかろうがお祓いを受けておけばおかげが頂けるというお祭りなんです。だからそういう素晴らしい働きを見せてくださり、分からせてくださる言うならば神様のお心が分かる。それに添い奉る生き方。
 「嫁入りをする時にに、親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは顔をいれいにするばかりではない。つらい苦しい時に鏡を立てて人に悪い顔を見せぬようにして家を治めていけよ」ということだという御理解でございます。初めの間は、やはりつらい苦しいことがお互いありますと、それを人には見せてはならない。言うならば腹立たしいとか、悲しい顔を人にはみせてはならない。一生懸命辛抱をする。その辛抱も神様にすがって辛抱する「生神金光大神様」と唱えながら辛抱をする。不思議に、辛抱させて頂いておると、辛抱させて頂いてよかったという答えが出てくる。そういう答えが段々段々度重なっていくうちにです、これは辛抱することでなないぞ、お礼を申し上げることだと気付いてくる。それを私は信心辛抱の徳だとね、信心辛抱の徳が身についてくると、辛抱することがなくなってくる。もうばからしい取り越し苦労をせんですむ。言うならば人情を使わぬ、神情一つでおかげの頂けるような生き方を、何時の間にか身につけていくことが出来る。
 合楽で頂く、黙って治めるというみ教えは、今日の御理解のね、黙って家を治めていけとう、あのところから頂いた御理解でした。サンズイ遍にム口と書いてある、治めるという字は、だから自然に起こってくることを無口黙って受けていくところに、黙って受けていくということが、こんなにも素晴らしいことだということが分かってくる。そこからね、辛抱するとか、情けないということではなくて、むしろお礼を申し上げねばならないことだということが分かってくる。人情を使わんですむようになる。
 ここでお祭りがいろいろ仕えられますが、今日のお祭りだけは、これは人為的なお祭りです。昨日、松栄会の方達がみんなでお供え物を買い整えました。そして整えられたお供えでございます。ですからやはり、すっきりしてますでしょうが。果物なんかでもすきっとして、普通のここのお祭りは、そうではない。言うなら神ながらである。すきっとはしてはいないけれども、まあ何と言うかバラエティーに富んだお供えが集まってくる。お供え物一つ一つの中に御神意がある。その御神意の中から御理解がある。それが合楽のお祭りである。勿論人間が買い整えてたと申しましても、御祭典費が各総代さんとか、各会からまいりますから、その言うならば祭典費をもって買いに行かれる訳ですけれども、そこに神ながらと人ながらの、言うならばコントロールとでも、それが今日のこのお祭りなのです。やっぱりね、その面白さがない。バラエティーに欠ける。
 私は勿論、信心させて頂いたら、もう必ず合楽理念に基づく生き方をさせて頂くならば、必ずや結果はおかげである。いわゆるハッピーエンドである。ところがこの頃はハッピーエンドに終わるお芝居とかが、もうあんまりみんなが喜ばないです。もう言うならばラストシーンがとこいったか分からんごたる結末になっていくというところがよかったというように人間が言うようになりました。そんなハッピーエンドに終わるとは思われないような世の中になってきた。もうこの世は言うならば浮世であり、仮の世であり、だからこの世ではしかたがないのだ。この世は苦の世だ、苦の世界だ。思うようにならぬが浮世というように落ち込んでしまう。その落ち込んでいくのをかえって喜ぶような傾向があります。現実性に富んだ映画なんてそうです。ハッピーエンドに終わるというのがない。というほどしに神様のおかげが分からなくなっている世の中であります。そういう世の中を私は、今こそ世界が闇の世である。ここに言うならばお互いが信心の徳を受けて、光を受けて世の中にいよいよ光りの輪を広げていく運動に参画させてもろうて、おかげを受けるために、まずは自分が助からなければならない。自分の心に光りを受けなければならないということになるのです。もう末は夢にも思わなかったおかげの展開なってくるんです。
 そこで例えばです、なるほど悲しいこと、苦しいことがありますけれども、その悲しいことも苦しいことも合楽理念をもって言うならば、合楽のみ教えをもって、それを頂きますとお礼を言わなければならないことが分かってまいります。悲しいという字は心にあらずと書いてある。非という字を書いて心と書いてある。言うならば子が親の言うことを聞かない。こんな親として悲しいことはないんだけれども、様々な問題、悲しいことなんだけれども、これが浮世なんだから仕方がない。これがこの世だから仕方がない。というふうに、もう仕方がないで、言わば落ち込んでしまっておる。教祖の神様はそうではない。人間がいよいよ有り難い、もったいないという生活に入っていける手立てを教えておられる。
 昨日、一昨日から三日間、本部で先生方の研修会のようなものがあった。ここから竹内先生と佐田先生、坂根先生が参りました。これが帰ってまいりまして三人の先生方の話を聞いてから有り難いと思ったことは、もう合楽理念をそのまに先生方、しかも教学の今度所長になられる、去年でしたかお話に見えた福島という先生のお話を聞いたんだそうですけれども、まったく人間の力をおいて神様のおかげにおすがりするほかない。「人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧く」という意味のお話ばかりであった。金光教の本部でも、そういうところに気がついてきた。言うならば今までのような方法論ではなかった。教会が発展するためには、こうせんならん、ああせんならんとうのではなくて、教師自体が本当に助かっていかなければならない。というお話であったということでございます。
 そこでです、結局、金光教の信心は言うなば「和賀心」に焦点が絞られるわけですけれども、その和賀心には、どういう信心をさせて頂いたら和賀心になれるかということに行き悩んでいるという感じのお話であった。合楽ではそこのところをです、いよいよ和賀心にならせて頂くことのための手立てを誰でも行じられるように説くのです。
 だからね、昨日、岩部という先生が兄弟三人でここで修行をいたしております。三人とも教師の資格を頂いておる。あることで、今、弟達二人があちらの福山の方ですから帰えっとります。それで、そのことを気に病んでというか、まあ一生懸命神様にお願いをしよった。そしたら「剣道をするときに、下着を、こう何かありましょう。そういう剣道の道具をつける下着を」頂いた。どういうことでしょうかと言うて参りましたから、ここではね、言うならばみんなが剣道のけいこに見えとるとば、見よるのではないのだ。自分がまず防具をつけるんだ。自分がまずは竹刀を握るんだ。そして稽古をしていかなければ一段にも二段にも三段にもなてはいけない。信心が一段一段上がっていくというのは、それに取り組まなければ手は上がらないんだ。いかに黒衣を着けとります、袴をはいとりますと言うても稽古しなかたら値打ちはない。稽古の構えを作らなければいけない。それに例えば防具をつけていない、うっかりしとりますから、ポンと打たれると痛いというて止めなければならないようなことにさえなってくる。構えを作っておくならば、防具をつけておくならば、例え叩かれてもそれは痛いことではないのだ。というようなお知らせを頂いたというのです。もうその通りです。
 みなさんも合楽でお話を頂いて有り難い。じゃあ例えば、今日のお祭りのようにです、一年に一遍拝んどきゃ、いや拝みもせんでも、ただあの紙に書いて出しておきゃ、一年間無病息災、交通安全のおかげが受けられる。確かに今の合楽の場合は、そういう神様のすさまじいまでの、それこそ甲斐ある命に目覚めてくれよと言わんばかりの働きが今、合楽では起こっておる。その働きにです、私どもが便乗させてもらわなければいけん。その働きに私どもが応えなければいけない。それにはいよいよね、今こそ合楽理念のいわゆる実験実証。本気で稽古、剣道の稽古をするならば防具をつけて竹刀をもって、そして相手がなからなければならないように、様々な稽古の相手はたくさん日々あるはずなんですから。
 今日もあの今日の大祓い一年間おかげを頂いてきたことをお礼申させて頂いておった、これも朝一番始めに頂いたことでしたけれども、あの研ナオコという女優ですか歌手がおりましょう、器量のよかつが。あれを御心眼に頂いた。だから「研」ということは研くということ「ナオコ」ということは素直。もう素直に改まろう、素直に研こうという気がいつも信心させて頂く者にはなからなければならないということだと。おかげを頂いただけで済ませてはでけん。いつも素直な心で改まらしてもらおう、研かしてもらおうという心をいつも頂いておかなければならない。一年に一遍参れば、それでおかげ頂くというような信心からです、いよいよそうした甲斐ある命に目覚めさせてもらう。そこに自ずと姿勢が出来てくる、構えが出来てくる。それが段々と初段、二段、三段というふうに段を受けていけれるようなことが、例えば稽古ですからきついこともありましょうけれども、そのことが楽しゅうなってくる。有り難うなってくる。
 合楽理念はもう有り難うして、言うならば愉快にさえなれる道だということが、そこまで行かなければ愉快とも有り難いということにもなって来ないのだ。お互いのおかげを頂きます神様の言うならばお働きのすさまじい、その働きに触れさせて頂いて、神様が何故ならそういう働きを合楽に起こしておられるのだろうか。そこに気付かせて頂いて、本気で、その親神様のお心に添い奉ろうとする精進をです。 
 まずは自分が助かって、その助かりを自分の周囲に広げて行こう。しかもその祈りの輪というものは限りなく広がっていく。言うなら内容のある光、内容のある祈りにならせて頂くことが大切。
 昨日、本部の方から帰って参りまして、正教先生が今度御本部に参りましたら、正教先生の家内のお父さん、父親になる方が今学院で修行しております。そしていろいろとお知らせを頂く中に、例えば時計のような、だれだれ先生というたら、五分ばかり十分ばかりいくというような先生ばっかりだと、合楽の親先生のことを願うと、これがぐるぐると、こう一遍通り回ると、もう私は恐れ入っとるという話をされたということです。
 それは、どうでしょうかね、ここで毎朝、総代さん方がお取り次ぎを願われるように、親先生の祈り願いが世界万国津々浦々に広がってまいりまして合楽示現活動が出来ますように、和賀心時代が、十三日会が、放生会が世界万国に広がってまいりますように」という祈り、そういう祈りがです、世界津々浦々に行き届いて行っていることではないかと思います。そして分からせて頂くことは合楽の信心こそ、どこのどういう国の人にでも入っていけれる内容、いわゆる普遍性に富んでいるということであります。言うならばこの世で、この世は苦の世だと落ち込んでいる人にでも、それを話してあげて分からせていったら、ほんとに嘘のような体験が生まれてきて、ハッピーエンドで一生を終わらせてもらい、物にも金にも自分の心の上にも頂けるそのおかげこそがあの世にも持って行けれる。この世は確かにあの世のためにあるんだというようなところに気付かせて頂いたら、いよいよこの世での言うならば生きた精進、いや生きたもう間違いのない目当てをつくって、それに向かって進んでいく信心の稽古がいるんだということでございます。
 今日のお祭りは端的に言うてです、そういう言うならば、甲斐のある、値打ちのあるお祭りだとね、お願いしとけば一年間おかげが頂けるというような、いうなら値打ちのあるお祭りだ。ところがそんならばそういう大祓いに現れてくるおかげというものは、もうその日のこと、そのお祭りだけに現れてくるのかとういうと、そうではない。合楽に御縁を頂いておる人達の上に、そういう祈りがやはり行き渡っているということを頂きとめる心がね、まず信心だということでございます。そして天地の開ける音を聞いて目を覚まさせてもらい、甲斐ある命に目覚めさせてもろうての日々でありたい。いよいよ本気で信心の稽古をさせて頂きたい。心に頂く光をいよいよ広めて行きたい。しかもそれは世界万国津々浦々に広げて行きたいという願いをもって信心をさせて頂くと。
 今日も朝から今の偉い兵隊さんである、何と言うですか、自衛隊ですか、の若い青年将校の方がお参りをして来ました。そしてそのお初穂に「国家安泰」と書いてあった。もう私は感動しました。だから私はその方に申しました。あなたが本気でこの「国家安泰」を願うてくださるならね、私もその何というかお取り次ぎのし甲斐がある。だからこうして書いてあるとか、願っているだけではいけません。こういう大きな願いを持つからには自分自身が、それだけの力を頂かなければいけませんよ。小さいことにくよくよしたり、腹を立てているようなことでは、国家安泰というようなおかげになってきませんよ、と言うて申しましたことでございます。本気で今の難しい世相の中にあってです、自衛隊という職場にあってです、もういよいよ国家安泰を祈らずにおれないというのが、今日のその方のお願いであったというふうに思います。ですからいわゆる何と言うですかね、マイホーム的なというかね、もう自分の家だけでなくて、まずは自分が助からないけない、家が助からなきゃいけない。そしてそれがいよいよ広がっていく、そいう手立てがこの大祓い式の、大祓い式というか、この今日の祈願祭なんかは一番格好なお導きのできるお祭りだというふうに思います。しかもそのお祭りに現れてくるおかげを、このような神様の間違いない、言わば天地のすさまじい働きを受け現してくださるのですから、それを全ての上にも現せれる信心を頂きたいと思います。どうぞ。